非常事態は震災だけでない。女性が暴漢から身を守る護身術【其の三】

今朝の読書で「技はすなわち精神の表現された技でなければならない。精神の表現された技を鍛錬することによって根本の精神を修養するのである。武道の心技は一体でなければ鍛錬の意味を持たぬばかりか心技何れかに片寄ってはかえって身をあやまり社会を毒する恐れがある。それなら武道はこの世から抹殺すべきである。」という和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範の言葉に触れ熟考しました。

正直であることには意義があり、胸の内に秘めていることを表に出すことで先に進めることがある。

長い2週間だったと感じていますが、正直であることには意義があり、胸のうちを明かし互いの本心を表すことで17年間挟まっていたものが取れ、ひっかかっていたものがなくなり、互いの進む道が決まりました。
気持ちは今日の空のように晴れていませんが、汚れない真っ白な状態です。これからも生まれて来るであろう様々な問題とはしっかり向き合い、特に子供たちの悩みに対しては、優しく受け止める大きく広く厚い胸を持ちたいと想います。

私の道場では、子供たちに先ず運動の楽しみを知ってもらい、身体を動かし汗を流して”気持ちを良くする”ことを大切にしています。

道場では、子供たちに’’運動’’の楽しみを知り気持ちを良くしてもらい、審査会や競技会、演武会等の本番に向け必要な技を修得するための’’練習’’を経て、「古を考える」という’’稽古’’を始めます。

’’古を稽る’’から光が照らされる時がある。’’稽古照今’’

’’稽古’’は、スポーツや運動・遊戯・娯楽などで行われる’’練習’’と重なる部分がありますが、’’練習’’が競技会などの本番を目指して必要な技を習得するために行われるのに対し、武道の稽古は技の習得とともに自己の内面を研鑽し高めるプロセスとして捉えられており、そのすべてが本番であるため、稽古はスポーツの練習と比べると’’躾け’’の要素が多くあります。
私個人の持論ですが、永遠ではない人生や無限ではない資源と同様に、人が一生で口から発せられる言葉には限りがあると思っているので、無駄遣いをせず特に子供たちに語りかける時は言葉を選び、分かり易く伝えることを大切にしています。生徒たちは私の想いと考えを理解しているので、’’しっかり訊く’’を努めてくれています。師匠と弟子の気持ちを合わせることが’’気合’’であり、想いが繋がるから良い稽古を生み出せると信じています。
その教えを守り集中している子供たちがいるにも関わらず、勝手な行動をしたり、無駄口を叩いたり、騒がしくする行為を大人が見せるようなことがあってならないと思うのです。突然の来客や大事な電話がかかって来た等、どうしても対応しなくてはならない場合、その場から離れたり、出来ない場合は小声で話すなど配慮が必要でそれは難しいことではないはずです。それが人の仁であり礼儀ではないでしょうか。そんな大人にならぬよう子供たちが健やかな心を育むことが出来る環境と機会を作るのが私たち大人のあるべき姿だと思っています。