”基本動作の一挙一動は全てのびのびと大きな、そして無駄のない動作で”

SHINTA 心太
【S】age maki wara
【HINT】s
【A】nswer
Sage maki wara HINTs Answer
“下げ巻き藁は答えをほのめかす”

相手に転体させず、また往なさせぬよう相手の中心を捉える感覚を養うために作りました。

常に意識して行ったことは、腹圧を高め、腕力でなく身体の練りでSHINTAと繋がりを作り、外回りする時も内回りする時も腰の捻りで重心を移動させ転位し終わる瞬間に必ず開いた腰を締める。いずれか一つでも欠けるとSHINTAに転体され私は左または右を取られてしまう。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P17 ≪大きい業と無駄な業の相違≫
基本動作の一挙一動は全てのびのびと大きな、そして無駄のない動作でなければならない。無駄のないのびのびとした大きな動作から、だんだん速い動作に入るのである。「書」でものびのびした大きな運筆法から行草と順次に進まぬと立派な字が書けぬと同様に,基本的な動作から,形,組手形,組手形の自由な変化,試合と順を追って進まないと上達しないのである。然し大きい動作ということは、少しの無駄もなくのびのびとした効率的な動作のことで、無駄なモーションをつけたり手足だけの動作ではない。モーションをつけることは決してのびのびとした大きい動作とはいえない。試合でよく見ることだが跳び込みざま突くときなど、折角中段に構えてある拳をその位置から突かずに一度勝側に引いてから突くものが多い。これは基本的な突きの修錬法をあやまって、ただ腕の力だけによって突こうとするから無駄なモーションがつくのである。力のとり方に無駄があり、力の空費である。跳び込みざま突く場合,いちいち拳を脇腹に引いて腕の力で突くのでは体も自然足で跳び込み突きとの調子を合わせるようになるので,動作が鈍くなり。腕の力だけで突くので挙に伸びがない。これは決して大きいのびのびした業とはいえない。無駄なモーションをつけたおそい業である。柔らかく滑らかに体でせり込むと同時に,拳を構えた位置から腰を切って拳体一体となって突くことができない。突く前の力,突いた後の力は無駄な力であるばかりでなく邪魔になる。力は突く瞬間以外絶対に要らない。突きばかりでなく、受け払いの場合も同じである。前述の如く,試合は「書」における草書の連係で自由自在に立派な手紙を書くのと同様である。無意味な死んだ型を使っていると看板屋の字で手紙を書こうとするのと同じく、試合においてもいちいち拳を脇側に引いて構えなければ突くことができないのである。それは基本の突きにおいて力のとり方に無駄があるからで,半身の構えで両拳を中段構えから跳込み突きをする場合にも自然と無駄なモーションをつけるようになり、構えた拳をその位置から突くことができないので、いったん引いて突くため、足で跳び込んで調子をとるようになり突きが鈍くなる。それが試合にも出てくるのである。このモーションは決してのびのびとした無駄のない大きい使い方ではなく、無駄な力の使い方なのである。毎日一回でも無駄な使い方をすれば、一年間に三百六十五回の無駄があるのみでなく,悪い癖がつき無駄な努力がかえって仇となり上達の妨げとなる。ただしつけ加えておきたいことは前述したとおり技には絶対最上のものはない。良い悪いは比較的なもので,相手より良いか悪いかである。だから相手の技量によって威嚇になる場合は大きくモーションをつけてもそれは無駄とはいえない。一つの戦術である。

武道精神とは

和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P5 ≪武道精神とは何か》
武の根本義である平和は口にはいい易いがこれを現実に人類社会にもたらすことは容易な業ではない。過去の歴史をひもとくまでもなく現在の国際情勢をみる時、あるいは不可能事ではないかとさえ思われるのである。然しそれが如何に困難であろうともこの平和を人類社会に招来しない限りわれわれ人間の生活は決して幸福にはなりえない。如何に困難であろうが、よし不可能事であろうが、是が非でも平和を勝ちとらねばならないのである。そしてこれを招来するものは神の力でもなければ仏の利益でもない。それはわれわれ人間の力によってのみなしうるのである。社会機構の単純だった時代でさえ困難であった平和促進は複雑極まりない然も空前な科学の進歩をみた現在の国際情勢下にある人類社会においては尚更容易なことではない。この不可能に近い武道理念を実現するためにはわれわれ人間に異状な精神力を必要とするのである。この異状な精神力こそ武道精神なのである。武道精神は人類社会に平和と幸福をもたらすための強力な原動力となるものである。この目的達成のため如何なる難事といえどもこれに屈せずその難関を乗越え目的の貫徹を断行しなければ止まない厳しい精神が武道精神である。

『技はすなわち精神の表現された技でなければならない。精神の表現された技を鍛錬することによって根本の精神を修養する。』

今朝のニュースでは胸を傷めました。加害者が小学生で同級生に対して数年間、詐欺と恐喝行為をしていたという事件。
私が毎朝運動する中で考えるのは「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念の意義を子供たちが理解し育むため、今日の道場稽古でどのように教えるか」
道場に通う生徒は幼児、小学生、中学生、大学生、社会人など年齢が異なり体力にも差があり、運動が得意な子や不得意な子がいたり、稽古に集中出来る子がいれば散漫な子もいます。各家庭の教育には違いがあるので価値観が大きく異なることを感じる時があります。そんな中で、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念の意義を子供たちが理解し育む」という目標は、私1人で達成出来ることではなく、生徒たちと一緒に協力し合えた時にのみ成し遂げられるものです。
だから先ずは言葉で伝え、次に身体を動かして見せて伝え、手を取り足を取り触れ合って伝え、子供たちが自分の想いや考えを述べられる機会を作り、互いの気持ちを通わせる努力をする。自分以外の人間を気にかけたり興味を持つこと、自分が持つ好き嫌いの感覚や喜怒哀楽の感情が相手にもあることを子供たちが知り忘れない、そんな時間の積み重ねが「仁・惻隠」、「礼儀」の心の成長に繋がると信じています。
和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範の著書『空手道 第一巻』の《道と術》の中にあるお言葉『技はすなわち精神の表現された技でなければならない。精神の表現された技を鍛錬することによって根本の精神を修養するのである。』

演目①『日本武道の美しさと力強さ』、演目②『琉球古武道が伝えたい大きな心と優しさ』、演目③『和道流空手道と柔術拳法で成す自他敬愛』

2月18日(日曜日)に狛江エコルマホールで開催された大イベントでの演武は大成功を収め閉幕しました。

和道流成武支部から11名の道場生たちが出演し、日本武道と琉球古武道の美しさや力強さ、そして和の心を多くの人々と共有することが出来ました。

1ヶ月半、道場稽古と自主稽古に励んだ11名の道場生たちが舞台上で輝いている勇姿をぜひご覧下さい。

仁と惻隠の心を広げ、豊かで優しい世界を目指します。

内臓が正しい位置に維持され、基礎代謝が上がり、姿勢が良くなり、便通が良くなるだけではない。蹴り技にも効果がある私の好きな腹筋運動!

私が空手道場に入門したのは1987年で道場の最盛期だった1989年は道場生が子供だけで50名いました。
準備運動で腹筋を鍛える時は、1人ずつ1から10まで号令をかけるので毎回500回することに。
おかげで腹筋は強くなりましたが、お尻の皮がめくれ、筋肉痛が長く続くので、現代では子供たちにさせることは出来ない内容です。しかし、腹筋を鍛えると内臓が正しい位置に維持され、基礎代謝が上がり、姿勢が良くなり、便通が良くなるという効果は確かで、蹴り技の向上にも大きな効果があるため、私にとって好きな運動の一つです。
和道流の魅力を道場生たちと共有することが私の喜びであるように、腹筋運動の楽しさと効果も道場生たちと共有出来るよう、様々な腹筋運動を紹介して行きたいと思います。

正直であることには意義があり、胸の内に秘めていることを表に出すことで先に進めることがある。

長い2週間だったと感じていますが、正直であることには意義があり、胸のうちを明かし互いの本心を表すことで17年間挟まっていたものが取れ、ひっかかっていたものがなくなり、互いの進む道が決まりました。
気持ちは今日の空のように晴れていませんが、汚れない真っ白な状態です。これからも生まれて来るであろう様々な問題とはしっかり向き合い、特に子供たちの悩みに対しては、優しく受け止める大きく広く厚い胸を持ちたいと想います。