刺突と突き 「春は花 秋は月ぞと打出だし 太刀の構えは更になきもの」

『刺突と突き』
春休みを活かして家族旅行をするため週末の稽古を欠席する兄弟が一緒に昨夜の稽古に振替で来ました。
4月から高校生になる兄と中学生になる弟へ、私から入学祝いの気持ちを込め普段とは違う内容を紹介しました。
私が15歳の時に父が「元服の祝いだ」と言って私に刀を贈ってくれた日を思い出した夜でした。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P25 ≪構えと受け≫

構え方には種々ある。応用動作には一定の構えはない。結局はどうでもよいが、相手の変化に即応してその攻撃を受け、あるいは払いまたは流してこれを防禦できればよい。然し日本武道には受けを目的とする受けはない。受けは常に攻撃を前提とする。構えもまた。攻撃を前提として構えをとるのである。攻撃を目的としなければ受ける必要もなければ構える必要もない。構えは攻撃と防禦のためであり、防興は攻撃せんがために防禦するのである。だから防禦してから攻撃したのでは相打ちとなるか後手に廻ることになる。防禦即攻撃,攻撃即防禦でなければならない。防禦も構えも常に攻撃が前提であるから、構えた体勢,防禦の姿勢の中にはいつも攻撃の気勢がこもっていなければならないし、如何なる体の変化にも如何なる攻撃にも対応可能な体勢でなければならない。 使う形の中にそれが表現されていなければその形は何の役にもたたない。受けた姿勢に力が残ったり構えた拳や手刀に力が残って手首が曲がったり、眼が下をむいたり、真直ぐにそそいでいても眼に力が入って一方をにらんだりしたのでは、勇壮げに見えても心も気も力も偏在して物の役にたたない。いわゆる死んだ型となるのである。活きた形を使うと云うことは非常にむずかしく十年二十年は愚か一生かかっても思うようにできないほどむずかしいのである。日本武道の居合の納刀の動作の中には常に抜刀の気勢がこもっていなければ上手とは云えないのも同様である。構えは活きていなければ何の用もなさない。「春は花 秋は月ぞと打出だし 太刀の構えは更になきもの」と伝書に残されている。

三代宗家 大塚博紀 最高師範 DVD『和道流の平安二段』2024年5月中旬発売

武道空手の追求『和道流の平安二段』DVD 2024年5月中旬発売
https://webhiden.jp/

順突き、下段払い、歩み足、回転動作等、必修の基礎を集約した重要形

和道流初代 大塚博紀 宗家は初段と順番を入れ替え、二段から稽古を始めました”(三代宗家 大塚博紀 最高師範)

身体を効率的に使い、細かく・速い技術を信条とする和道流では、このように平安二段を全ての動きの基礎としている。

そこで本DVDは和道流としての平安二段を三代宗家 大塚博紀 最高師範自らが丁寧に解説していく。

全挙動を解剖学と圧縮・伸長、同時逆方向(回転)が生み出す練りといった身体操作を中心に丁寧に解説していきます。

Pursuit of Budo karate
“Wado-Ryu’s Pinan Nidan” DVD Released in mid-May 2024
https://webhiden.jp/

Step Punch, Low Block, Stepping Foot, Rotational Movement, etc
Important KATA that summarizes the basics of compulsory learning.

Grand Master 1st switched the order of Shodan and Nidan and started practicing from Nidan((Grand Master 3rd Hironori Otsuka Sensei)

Wado-Ryu believes in efficient use of the body and fine, fast techniques, and thus uses Nidan as the basis of all movements.

Therefore, in this DVD, Grand Master 3rd Hironori Otsuka Sensei himself will carefully explain Pinan Nidan as Wado-Ryu.

Grand Master 3rd Hironori Otsuka Sensei will carefully explain all the movements, focusing on the physical manipulations such as compression, expansion, and ”Neri” created by simultaneous
reverse directions (rotation).

≪Short動画≫ 火曜日クラス・経堂校の昇級審査(2024年3月26日)

月曜日と火曜日、木曜日に私が空手道クラスの講師を務めている小学校での審査を先週に終え、今週は私の道場の全クラスで昇級審査を行っています。
先ずは、火曜日クラス経堂校の幼児と小学校低学年を対象にした審査を3月26日に実施しました。
まだ体は小さくても、彼らにとっては大きな挑戦の時間で、普段は笑顔の子たちがこの日は緊張していました。出来なかった腕立伏せが出来たり、帯を正しく結べるようになり、腰を落として立てるようになったり、形を途中で間違えても自分で気づき正しく直す力がつきました。
私が合格を告げた時に彼らが見せてくれる笑顔と、子供たちが母親に合格を伝えに行った時に我が子を褒めて優しく包んであげる母親の優しさ。
このような瞬間をこれからも様々な機会を設けて生んで行きたいと思います。

「洗心」は武道鍛錬の一つの目的

誰にでも想定外の出来事に遭遇したり、思いもよらぬ経験をして意識が変わったことがあると思います。
私の場合は、暴漢に襲われ格闘の末に上段受けで相手を抑えこむことが出来た事により、上段受けに対する考え方が変わり、私にとって重要な技の一つとなったことです。
2003年5月、私はアメリカにある日本料理店で板前として寿司を握っていました。土曜日の夜だったので店は忙しく、カウンターやテーブル、座敷で美味しい寿司を待つ客人のため、私も張り切って包丁さばきを披露していました。かっぱ巻きの注文が入り、私が寿司バーから厨房に「キュウリを一本下さい。」とお願いするも返事がありません。普段なら元気良く「はい♪」と返事があるので不思議に思い、私は自分で厨房へキュウリを取りに向かいました。すると、忙しく働いているはずの皿洗い係や配膳係たちが黙って直立しているのです。私は「忙しいのに、皆んな何をしているんだよ?」と言って近づくと、屈強な体をした見知らぬ男が従業員の胸ぐらを掴んでいるのです。私は男に対し「何をしているんだ!?」と言うと男は「隣のバーで気持ち良く飲んでいたらオーナーが俺を追い出しやがった。あの野郎を刺してやりたいから、刺身ナイフを貸せ!」と言うのです。私は「なるほどね、はい、これ刺身ナイフ。」と貸す訳はなく、私は「何を言ってるんだ?貸せる訳ないだろ!」と言った直後、男は私に右フックを出して来ました。私が咄嗟に左手で捌くと、男は積まれていた湯呑みコップの棚に激突しました。私は心配になり男に近づいた瞬間、男は私の両足を掴み私を引き倒しました。仰向けの状態の私を目掛けて男は上から踏みつけてきました。私はすぐ起き上がりたかったのですが、厨房の床が油で滑り易くすぐには立ち上がれません。踏み続ける男が疲れた顔を見せたので、私が起き上がろうとした瞬間、男の肘打ちが私の首に振り落ちて来ました。一瞬、私は意識がなくなりかけたのですが、男の背中にある壁には中華包丁が並んでいたので、私は男に気づかせてはならないと踏ん張り、男の喉に左前腕を押し当て冷蔵庫と冷蔵庫の間にある隙間へ男を押し下がらせました。力が強い男は暴れ、左手で私の髪をむしり、右手で私の頭を叩き続けました。私は店のオーナーから「絶対にケンカするなよ、相手に怪我を負わすなよ。」と言われていたので、突きや蹴りは使わず左腕を男の喉に押し当て、上段受けの構えをし続けました。男が呼吸困難にならない程度に力を抑えたり入れたりを7分間続けていると、店のヘッドシェフが通報して呼んだ警官2人が入って来ました。私はこの警官たちがどんな逮捕術で男を制圧するのか期待しました。次の瞬間、大きな体の警官が小さなポケットから取り出した小さな催涙スプレーを男の目に噴射しました。7分以上私と格闘した男はあっけなく床に倒れ悶絶し始めました。それを見た瞬間、私は決意しました。「これを買って帰ろう…」と。
私が帰宅すると、ユニフォームは破れ、髪は乱れ、顔中擦り傷だらけの私を見た妻は言いました。「仕事だったんだよね?レストランにいたんだよね?え?今夜は格闘技の試合があったの?」
妻の冗談に私はウケませんでしたが、上段受けにより私は私自身を護ることが出来たことに大きな喜びを感じました。「空手道を続けていて良かった!」と叫びながらシャワーを浴びた日のことを鮮明に覚えています。

”基本動作の一挙一動は全てのびのびと大きな、そして無駄のない動作で”

SHINTA 心太
【S】age maki wara
【HINT】s
【A】nswer
Sage maki wara HINTs Answer
“下げ巻き藁は答えをほのめかす”

相手に転体させず、また往なさせぬよう相手の中心を捉える感覚を養うために作りました。

常に意識して行ったことは、腹圧を高め、腕力でなく身体の練りでSHINTAと繋がりを作り、外回りする時も内回りする時も腰の捻りで重心を移動させ転位し終わる瞬間に必ず開いた腰を締める。いずれか一つでも欠けるとSHINTAに転体され私は左または右を取られてしまう。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P17 ≪大きい業と無駄な業の相違≫
基本動作の一挙一動は全てのびのびと大きな、そして無駄のない動作でなければならない。無駄のないのびのびとした大きな動作から、だんだん速い動作に入るのである。「書」でものびのびした大きな運筆法から行草と順次に進まぬと立派な字が書けぬと同様に,基本的な動作から,形,組手形,組手形の自由な変化,試合と順を追って進まないと上達しないのである。然し大きい動作ということは、少しの無駄もなくのびのびとした効率的な動作のことで、無駄なモーションをつけたり手足だけの動作ではない。モーションをつけることは決してのびのびとした大きい動作とはいえない。試合でよく見ることだが跳び込みざま突くときなど、折角中段に構えてある拳をその位置から突かずに一度勝側に引いてから突くものが多い。これは基本的な突きの修錬法をあやまって、ただ腕の力だけによって突こうとするから無駄なモーションがつくのである。力のとり方に無駄があり、力の空費である。跳び込みざま突く場合,いちいち拳を脇腹に引いて腕の力で突くのでは体も自然足で跳び込み突きとの調子を合わせるようになるので,動作が鈍くなり。腕の力だけで突くので挙に伸びがない。これは決して大きいのびのびした業とはいえない。無駄なモーションをつけたおそい業である。柔らかく滑らかに体でせり込むと同時に,拳を構えた位置から腰を切って拳体一体となって突くことができない。突く前の力,突いた後の力は無駄な力であるばかりでなく邪魔になる。力は突く瞬間以外絶対に要らない。突きばかりでなく、受け払いの場合も同じである。前述の如く,試合は「書」における草書の連係で自由自在に立派な手紙を書くのと同様である。無意味な死んだ型を使っていると看板屋の字で手紙を書こうとするのと同じく、試合においてもいちいち拳を脇側に引いて構えなければ突くことができないのである。それは基本の突きにおいて力のとり方に無駄があるからで,半身の構えで両拳を中段構えから跳込み突きをする場合にも自然と無駄なモーションをつけるようになり、構えた拳をその位置から突くことができないので、いったん引いて突くため、足で跳び込んで調子をとるようになり突きが鈍くなる。それが試合にも出てくるのである。このモーションは決してのびのびとした無駄のない大きい使い方ではなく、無駄な力の使い方なのである。毎日一回でも無駄な使い方をすれば、一年間に三百六十五回の無駄があるのみでなく,悪い癖がつき無駄な努力がかえって仇となり上達の妨げとなる。ただしつけ加えておきたいことは前述したとおり技には絶対最上のものはない。良い悪いは比較的なもので,相手より良いか悪いかである。だから相手の技量によって威嚇になる場合は大きくモーションをつけてもそれは無駄とはいえない。一つの戦術である。

武技は『型』ではなく『形』。正しい信念に基づく協調を大切にしたい。

昨日(2024年3月19日)の発表会では嬉しいことがありました。
昨年末に初段位を取得した11歳の男児生徒が望ましい成長を見せてくれたからです。
発表会の前半は、先月に開催されたイベントで披露した演武の再演を依頼されました。その演武は私が指導を務めている3団体から集まった11名の小学生で構成されているのですが、内8名は異なる小学校の生徒のため、発表会が開催される小学校に入ることは出来ないので、11名で演じる内容を3名で演じることになりました。3名の内2名は7歳児と9歳児で代役を務められる内容に限りがあります。すると11歳の男児生徒が「このパートでは先生に習ったこの形を応用して良いですか?」と私に提案しました。私は驚きと嬉しさで「それでいってみよう!」と受け入れました。
30分間集中し真剣に取り組んだ子供たちは発表会での演武を見事に成功させ、終了後は多くの同級生や下級生たちから「凄かった!」「かっこよかった!」と声をかけられとても幸せそうな笑顔を私に見せてくれました。
教師が『教える』だけでなく、生徒たちが『習う』だけでなく、互いに考え知識や意見を交えて協力し、調和しようと努力することは’’親切’’・’’同情的’’・’’暖かい’’・’’思いやり’’といった『協調性』を育てる大切な経験だと思います。
道場での稽古も、私と有段の生徒たちで取り組む共同研究と共同実験です。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P16 ≪型と形≫
「型」は「いがた」と読む。鋳物の型から造られる鋳物は、規格にはまった、変化のない同一の鋳物である。型は、その鋳物以外の用をなさない。武技は型であってはならない。「形」である。 「形」は「姿」「あらわす」の意で,鏡に映る姿と同様に,相手に応じて変わる。相手が僅かでも変われば、鏡面の姿もそれに応じて変わる。これが武技の形である。「型」は死んでいるが、「形」は活きている。死んだ型ではものの役に立たない。活きているから活用できるのである。だから武道の形を使うには,その形の持つ意味目的を活かして使わねばものの役に立たないばかりか徒労に終わる。活きた形を使うことは非常にむずかしいが、武技鍛錬には大切なことである。同一の形でも人によって使い方に多少の差異がある。それはその人の持つ個性が、形の上に現われるからである。型でなく形であるべきことは、ひとり武技のみではない。書でも同様で,型におちいると看板屋か提灯屋の字になって、奇麗にみえても死んでしまう。恰好だけが如何に立派でも,それは上手とはいえない。書が上手になるには、筆のおろし方,横に引き方,止め方、抜き方と、「一」の字の筆法を三年くらい習うそうである。俗にいう永字八法の運筆法が字のうちに出なければ字は恰好だけで死んだ字となる。日本舞踊でも同様である。体の運び,手足の振り,眼の配り方。すべてが型にはまって美しく見えても、踊が死んでいては無味乾燥なものになる。地方(じかた)の長唄なり清元なりの歌詞の持つ意を表情や振りに表現させ歌詞の意の音律化された曲との気合が合ってこそ,はじめて購が活きてくる。演劇。音楽,歌謡すべてがそうである。歌詞や詩詞の持つ意と無関係な型を、音律だけに合わせて使うときは、無味乾燥なものになるのみかむしろ滑稽である。武技の形の一挙一動は技の基礎である。その一挙一動は「書」における「永字八法」の運筆法と同様である。その正確な一挙一動の集成されたものが正しい活きた形であり活きた楷書なのである。のびのびとそしていきいきとした書を書くのと同様,のびのびとした活きた形を使わなければいけない。書では手紙を書く場合実用にならない。書から行書,さらに草書へと進み、そして字と字の連がりが自由自在にでき得るようになってはじめて立派な字で、手紙が書け実用になるのと同様に,形から組手形へ,さらに試合へと順を追って進んでこそ立派な武技が使えるのである。武技の基礎である形は書の基礎である楷書の如く重要性が高いのである。決して「かたち」だけであってはならない。活きた形の修業が肝要である。武技は型ではない形である。揮して正しい信念に基づく協調が大切である。

”不屈な粘り強い武道精神を発揮して正しい信念に基づく協調が大切”

私は1週間の中で金曜日が好きです。週末だからではなく、「今日は何をどのように伝えるか」を考えて朝の運動で試し、昼に動画を見て確認し、午後は3時から9時までの4クラスで幼児と小学生、中学生と大学生、そして社会人と稽古をすることで『精神が表現された技だったか?』や『無駄な動きはなかったか?』、『言葉での説明と身体での実演に矛盾はなかったか?』など、私にとって研究と実験の結果を出し、その結果と向き合い翌日に役立てるために熟考する大切な日だからです。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P14 ≪妥協と協調≫

全て物事の解決は力や妥協でなすべきでない。歴史や現実を無視して一挙に理想に持ち込もうとすれば必ず衝突が起る。粘り強く辛抱強く不屈の精神でじっくりと話合わねばいけない。お互に粘り強く辛抱強く不屈の精神で話合っても,平行線をたどって解決の道が容易に見出せないこともある。然し辛抱強く話合っている内に少しでも同意点が見出せれば平行線は僅かでも相寄ってくる。 徐々にでも僅かでも相寄ってくればいつかは両線は一点に重なるのである。それが例え一年先でも十年先でもよい。でも理想に近づこうとする進歩的精神は往々にして辛抱しきれない。威力や力による解決が早いので遂いには鉄兜でゲバ棒を振り廻したくなる。威力や力で貫ぬいたものはいつかは必ず威力や力で倒される。中国や西欧の歴史を見ても我が国の歴史を顧みてもうなづける。光秀は三日天下といわれ、光秀を討った秀吉の天下は僅かに三十余年,徳川幕府は二百六十余年で亡びた。家康が天下をとって以来、幕府は天草の変以外は兵を動かさず政治力で次々と大藩を取漬ぶした。さすがのビスマルクも家康の治国の政治の巧妙さには感心したそうだが、兵力を用いなかったために比較的長つづきしたのかも知れない。力や妥協は必ず禍根を残す。不屈な粘り強い武道精神を発揮して正しい信念に基づく協調が大切である。

日本武道に先手なし

暖かい季節を迎え、道場稽古だけでなく外での運動も心地良く出来るようになりました。
3月は学校を卒業する時期で、4月から新しい環境での生活に対し不安と期待を抱く子供たちと話をする機会があります。
私は「新たな場所で自分は何をしようとしてしているのか?」を明確にし見失わないことの大切さを伝えるようにしています。
道場では黒帯を手にすることがゴールだと決めてしまい初段位を取得してすぐに稽古を辞め道場を去ってしまう子や稽古を続けたいけど塾や部活で道場稽古の時間が取れなくなる生徒たちがいれば、段位を取得後、数年経っても目標を持って稽古を続ける生徒たちがいます。
目的や目標を持って取り組む者たちは習うだけでなく自分でも考え身体を動かし、自分の内面と身体の内側と向き合っている姿勢が、発言や態度から見ることが出来るようになりました。
私は自分の身体の中で腹筋を鍛えることを重視しているので、ある程度の突きや蹴りを受けても身体には響かないのですが、最近はこの子たちの突きの威力を実感するようになりました。
私が「今の効いた!」と叫ぶと、生徒たちが屈託の無い笑顔を見せてくれる瞬間があります。
稽古が楽しいと感じるつつ、決してだらけずに真剣に打ち込み、互いが幸福を感じられる時間を生んで行きたいと思っています。

和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P11 ≪日本武道に先手なし≫
前述の如く武道の根本理念は平和にあるので、故なくして武技を用うることは当然ありえないのである。またこれを用いねばならぬことほど人間として最大の不幸はない。だから終生これを用いないですむ様に争いごとや戦争をなくするために武道があるのである。だからみだりに先手に用いることは最もにくむべきことである。武技を用いるのは紛争解決の手段としては下の下策で、相手の暴力に対し万策つきてこれを用いる以外に手段方法のない時止むを得ずして用いるのである。用いる以上は絶対に平和をとり戻さねばならない。そのためには断じて勝たねばならぬ。だから皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切り,骨を切らして髄を切るという生死をかけて勝たねばならぬ教えがある。たとえ斃れても必ず相手を斃さねば止まぬのである。日本武道は積極的であり大乗的である。決して護身が目的で生れたものではない。護身は勝つための防禦である。そこに日本武道の特性がある。技はたまたま護身術になり得る場合があるに過ぎない。武技を護身のために用いねばならぬことさえ既に不幸な事である。この不幸を未然に防ぐため、「気構え」「心構え」がやかましくいわれるのである。戦略的に先制するため先手に出ることはあっても、それはあくまで勝つための戦術的手段に外ならない。