綱引きで生徒たちと繋がりを作り、手指から足指まで体の繫がりを学ぶ

7kgのトレーニングロープを使って綱引きをしました。順突きの立ち方や四股立ち、真半身猫足立ちや飛込み流し立ちの立ち方や姿勢や重心の違いを知り、手指の握り方や脇を締めること、腕を伸ばすことや腕を引くこと、突き技に繋がることを学んでもらいました。

Yesterday, the first typhoon of the year came to Tokyo and was hit by strong winds and strong rain.
It was such a weather, but I wanted my students to experience a tug-of-war, so I headed to two dojos with an umbrella in one hand and a 7kg training rope in the other.
They learned about the differences in how to stand, posture, and center of gravity in the Step Punch Stance, Four Legs Stance, Side Cat Stance, and Tobikomi Nagashi Stance.
They also learned how to grip their fingers, tighten theri armpits, extend their arms, and pull their arms, which they learned were connected to Tsuki techniques.
I’m happy because the children enjoyed exercising and practiced seriously.
On the road to Dojo, my whole body was covered with rain and mud, but I thought it was right to bring a rope. Because I connected my hearts with my students with a rope.
It’s sunny today !
My kimono and Do-Gi are washed and beautiful ♪

『厳正なうちにも温かい愛情と同門者の相互友情』

I would like to shower my students with warm love even though I am strict with them, and to foster mutual friendship among my Dojomates.

和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P5 ≪武技鍛錬の目的≫
各人各様その考え方は、異るであろう。武道精神の鍛錬を目的となすもの,体育を目的となすもの,護身を目的となすもの、職務上必要となすもの、武技に長じ腕力的に優越感をもとむるを目的となすもの,単に趣味娯楽として楽しむことを目的となすもの、あるいは以上の内の数種を目的となすもの等種々あるであろう。人は各々主義思想が異る如く武技修業の目的にもまた差違あることは止むを得ない。だが修業者はあくまで武道の本義を修むることを心がけねばならないしまた指導者もそうあるように心して導かねばならない。多くのものは初めはその目的を異にしていてもこれを続けている内に単純な目的だけでは何か心に物足りなさを感じこれによって何物かを求めようとするようになる。そして次第に精神面へと入るようになるものである。そうなることによっていよいよ人間性が磨かれるのである。だが精神面や人間性の向上を目的とする錬磨なら武道の銀錬以外に方法はいろいろあるであろう。また単に体育だけを目的とするなら武技より体育医学的に勝れた体育法があろう。だが正しい精神の鍛錬は非常に困難である。この難事をあえて突破するには力と力、体と体をぶっつけ合って勝敗を競う武技の銀が有効である。然し(しかし)体力と体力の組合いによる勝負法である武技鍛錬の厳しさは恰も劇薬のそれの如きものがある。その方法正しければ効果極めて顕著となるも、ひとたびこれをあやまる時はその害計り知れぬものがある。武技を学ぶものは精神修養を目的とする境地に至るまでに邪道に陥らぬよう心がけねばならぬと同時に指導者の厳正なうちにも温かい愛情と同門者の相互友情とが必要である。武技を学ぶものはまた常に勝れた智能の修養に心がけねばならない。この厳しい武技鍛錬によって如何なる難事といえども之に屈することなく敢行しなければ止まない不屈不境のねばり強い精神力とそれに耐えうる体力とを養うのである。
即ち武技の鍛錬は武道精神の錬磨が目的である。

≪Short動画≫ 火曜日クラス・経堂校の昇級審査(2024年3月26日)

月曜日と火曜日、木曜日に私が空手道クラスの講師を務めている小学校での審査を先週に終え、今週は私の道場の全クラスで昇級審査を行っています。
先ずは、火曜日クラス経堂校の幼児と小学校低学年を対象にした審査を3月26日に実施しました。
まだ体は小さくても、彼らにとっては大きな挑戦の時間で、普段は笑顔の子たちがこの日は緊張していました。出来なかった腕立伏せが出来たり、帯を正しく結べるようになり、腰を落として立てるようになったり、形を途中で間違えても自分で気づき正しく直す力がつきました。
私が合格を告げた時に彼らが見せてくれる笑顔と、子供たちが母親に合格を伝えに行った時に我が子を褒めて優しく包んであげる母親の優しさ。
このような瞬間をこれからも様々な機会を設けて生んで行きたいと思います。

武技は和の術

昨夜、中学3年生の生徒が嬉しい報告と最後の稽古をしに道場へ来ました。
彼は道場稽古と並行して中学3年間続けたバレーボールの名門校への入学試験に合格し、4月から志望校へ入学し高校生になります。
憧れの選手を目指し高校3年間はバレーボールに打ち込むため、昨日をもって道場稽古は休止し、高校卒業後に稽古を再開したいと申し出がありました。私は快く受け止めました。
彼が小学一年生の時に道場に来て稽古を始めてから9年間、全国大会に向けて特訓した日々、スポーツ祭りで演武や演劇を披露したり、猛暑の中で夏の合宿を行い互いに励まし合いやり遂げたこと、ハロウィンパーティーやクリスマスパーティーで楽しく過ごしたこと、これら全てが美しく消えることの無い思い出です。
彼が自信と誇りを持って旅立てるように、卒業稽古と題して昨夜は基本と形と組手を真剣に行い別れました。
彼が流した美しい涙と純粋な言葉は、私が決して失いたくない初心と情熱を強くしてくれました。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P10 ≪武技は和の術≫
武道は和の道であり武技は和の技である。和の表現された形が武技である。和の表現である武技を鍛錬することによって和の道である武道の理念に徹し、和を貫徹する精神を修養することができるのである。武技は和の表現で決して無理がない。理論的であり科学的でもある。天の道に背かず地の理に逆わず人の道に悖(もと)らず天地人の理道に和するのである。吹く風の如く流るる水のそれの如く大自然の理道に和するのである。水は常に低きに向って流れる。岩壁や堅固な堤防につきればこれを避けスムーズにそれて流れて往く。工事の粗漏な堤防なら蟻の一穴よりの譬の如く少しの隙間も見逃すことなく浸透してこれを崩壊し押し流してしまう。風もそうである。また水上に浮ぶ瓢簞は如何なる激にも抗することなく波浪に乗ってこれをさけるので沈まない。「流す」「往(いな)す」「乗る」など、日本武道独特の術語は真に適切な和の表現語である。技は常に相手の強い力に抗することなく、その力を利用してこれを流し、相手の力から己れを防禦し、流してれを防する力が反対方向への力となって相手を攻撃するのである。水車は落水の力に抗することなくその力を利用して廻転しその力が反対方向に働くのである。風車も同様でこれは積(てこ)作用による力の運動で防禦も攻撃も天地自然の理道に和するのである。武道の攻防は一連で自然の理法にかなっている。武技の変化は球転の如く自分の身を移動することによって相手の実を往しこれを制して虚となしつつ。己れの実が相手の虚をつくのである。あたかも卓上をまろぶ球の運動の如く球に加わる力に抗することなくこれを流し自然の理道に和してスムーズにまろぶのと同様である。然し武技は卓上をまろぶ固定形の球転ではなく、空間をまろぶ柔軟な気体の球転である。固定形の球は平面の上はスムーズにまろぶが凹凸面は滑かにまろばない。気体の球は如何なる面も空間も自由に外力に阻まれることなく柔かにこれを往しつつ時には楕円形となりあるいは波状形に変りつつ滑かにまろびもとの球形に復するのである。気体の球は如何なる外力にも抗することなく無限に変形・してこれを軽く往す。無限に変形するから面も極も無限に変化する。だから形あって形がなく面があって面がなく極があって極がない。形も面も極もその変化は無限である。武技は気体の球の如くその変化には極限がなく宇宙の如く無限大である。宇宙の如く無限大であるから空である。無限の空であるから全てを抱擁して和となすことができる。宇宙の如く無限の空であるから武技には極致の技はない。その技は千変万化無限大で宇宙の真理に通ずる。武技の形は無限に入る基点である。
形から入って形に止まることなく形からぬけでた自由自在な無限の形が武技なのである。即ち和の技である。和の表現された形の錬磨によって武の根本理念である和の道を究め和の道を求め和の精神を修養することができるのである。だから和の技でなければそれは武技とはいえない。それのみではなく自然の理道に抗してかえって和を損うに至る。武技は決してただの荒事ではなく天地人の理道に和した無理のない大自然の理を表現した和の形である。
武の業は宇宙の如く 無限にて 業に極致はなきものと知れ
博紀


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P11 ≪日本武道に先手なし≫
前述の如く武道の根本理念は平和にあるので、故なくして武技を用うることは当然ありえないのである。またこれを用いねばならぬことほど人間として最大の不幸はない。だから終生これを用いないですむ様に争いごとや戦争をなくするために武道があるのである。だからみだりに先手に用いることは最もにくむべきことである。武技を用いるのは紛争解決の手段としては下の下策で、相手の暴力に対し万策つきてこれを用いる以外に手段方法のない時止むを得ずして用いるのである。用いる以上は絶対に平和をとり戻さねばならない。そのためには断じて勝たねばならぬ。だから皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切り,骨を切らして髄を切るという生死をかけて勝たねばならぬ教えがある。たとえ斃れても必ず相手を斃さねば止まぬのである。日本武道は積極的であり大乗的である。決して護身が目的で生れたものではない。護身は勝つための防禦である。そこに日本武道の特性がある。技はたまたま護身術になり得る場合があるに過ぎない。武技を護身のために用いねばならぬことさえ既に不幸な事である。この不幸を未然に防ぐため、「気構え」「心構え」がやかましくいわれるのである。戦略的に先制するため先手に出ることはあっても、それはあくまで勝つための戦術的手段に外ならない。

武技の鍛錬の目的は、『武道精神』の練磨

昨日の投稿の冒頭に書いた『小学生が同級生に対して数年間、詐欺と恐喝行為をしていたという事件』について、昨日の午後のクラスで7歳と8歳の子供たちを対象に話し合ってみました。
私は子供たちに「’’何が’’悪いことかな?」と尋ねると、数名の生徒が挙手し「人を騙すこと、お金を取ること」と述べました。
私が「加害者も被害者も君たちと同じ小学生です。どうしてこんなことをしたと思う?」と尋ねると、子供たちは「人を騙すこととか、お金を取ることは悪いことだって習ってないんだと思う。」と述べました。私は続けて「習ってないことを教えるのは誰かな?」と尋ねると、「お父さんとか、お母さんとか、学校の先生とか、冨髙先生とか。」と子供たちは答えました。
「自分が怪我を負わないため、人に怪我を負わせないため、自分が事故や事件に巻き込まれないため、人を事故や事件に巻き込まないため、自分が病気にならず、人に病気をうつさないために予防したり備えることの重要性を教えて方法を工夫する機会を作るのが私たち大人であり、習い学ぶのが君たち子供です。」「私たち大人は君たちに教えたからもう大丈夫かな?君たちは私たち大人から習ったからもう大丈夫かな?」と尋ねると子供たちは長く黙り考えた後に挙手しました。「習っても忘れちゃうことがあるから、時々、誰かに言ってもらったほうが良いと思う。友達がダメだよって言ってくれたら思い出せるから。」と子供たちは述べました。
「自分のことを気にかけてくれる人を大切にしよう。そして自分も周りの人を気にかけてみよう。私たちは一人で生きていない。誰かの努力や優しさや創造した物に触れ心を動かされて’’よし!頑張ろう!’’と自分を鼓舞して生きています。少しずつ人のために、次に自国のために、そして世界の平和のために出来ることを考え見つけて自分の言動を役立てて行こう。」と伝え稽古を始めました。
一人の子供の身近にいる全ての大人が少しでも成長に携わろうと「寄り添う努力」は、まだ幼い子供たちの心を「健やかに成長させることが出来る」と信じて私も努めて行きます。

非常事態は震災だけでない。女性が暴漢から身を守る護身術【其の三】

今朝の読書で「技はすなわち精神の表現された技でなければならない。精神の表現された技を鍛錬することによって根本の精神を修養するのである。武道の心技は一体でなければ鍛錬の意味を持たぬばかりか心技何れかに片寄ってはかえって身をあやまり社会を毒する恐れがある。それなら武道はこの世から抹殺すべきである。」という和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範の言葉に触れ熟考しました。

’’古を稽る’’から光が照らされる時がある。’’稽古照今’’

’’稽古’’は、スポーツや運動・遊戯・娯楽などで行われる’’練習’’と重なる部分がありますが、’’練習’’が競技会などの本番を目指して必要な技を習得するために行われるのに対し、武道の稽古は技の習得とともに自己の内面を研鑽し高めるプロセスとして捉えられており、そのすべてが本番であるため、稽古はスポーツの練習と比べると’’躾け’’の要素が多くあります。
私個人の持論ですが、永遠ではない人生や無限ではない資源と同様に、人が一生で口から発せられる言葉には限りがあると思っているので、無駄遣いをせず特に子供たちに語りかける時は言葉を選び、分かり易く伝えることを大切にしています。生徒たちは私の想いと考えを理解しているので、’’しっかり訊く’’を努めてくれています。師匠と弟子の気持ちを合わせることが’’気合’’であり、想いが繋がるから良い稽古を生み出せると信じています。
その教えを守り集中している子供たちがいるにも関わらず、勝手な行動をしたり、無駄口を叩いたり、騒がしくする行為を大人が見せるようなことがあってならないと思うのです。突然の来客や大事な電話がかかって来た等、どうしても対応しなくてはならない場合、その場から離れたり、出来ない場合は小声で話すなど配慮が必要でそれは難しいことではないはずです。それが人の仁であり礼儀ではないでしょうか。そんな大人にならぬよう子供たちが健やかな心を育むことが出来る環境と機会を作るのが私たち大人のあるべき姿だと思っています。