武技は和の術

昨夜、中学3年生の生徒が嬉しい報告と最後の稽古をしに道場へ来ました。
彼は道場稽古と並行して中学3年間続けたバレーボールの名門校への入学試験に合格し、4月から志望校へ入学し高校生になります。
憧れの選手を目指し高校3年間はバレーボールに打ち込むため、昨日をもって道場稽古は休止し、高校卒業後に稽古を再開したいと申し出がありました。私は快く受け止めました。
彼が小学一年生の時に道場に来て稽古を始めてから9年間、全国大会に向けて特訓した日々、スポーツ祭りで演武や演劇を披露したり、猛暑の中で夏の合宿を行い互いに励まし合いやり遂げたこと、ハロウィンパーティーやクリスマスパーティーで楽しく過ごしたこと、これら全てが美しく消えることの無い思い出です。
彼が自信と誇りを持って旅立てるように、卒業稽古と題して昨夜は基本と形と組手を真剣に行い別れました。
彼が流した美しい涙と純粋な言葉は、私が決して失いたくない初心と情熱を強くしてくれました。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P10 ≪武技は和の術≫
武道は和の道であり武技は和の技である。和の表現された形が武技である。和の表現である武技を鍛錬することによって和の道である武道の理念に徹し、和を貫徹する精神を修養することができるのである。武技は和の表現で決して無理がない。理論的であり科学的でもある。天の道に背かず地の理に逆わず人の道に悖(もと)らず天地人の理道に和するのである。吹く風の如く流るる水のそれの如く大自然の理道に和するのである。水は常に低きに向って流れる。岩壁や堅固な堤防につきればこれを避けスムーズにそれて流れて往く。工事の粗漏な堤防なら蟻の一穴よりの譬の如く少しの隙間も見逃すことなく浸透してこれを崩壊し押し流してしまう。風もそうである。また水上に浮ぶ瓢簞は如何なる激にも抗することなく波浪に乗ってこれをさけるので沈まない。「流す」「往(いな)す」「乗る」など、日本武道独特の術語は真に適切な和の表現語である。技は常に相手の強い力に抗することなく、その力を利用してこれを流し、相手の力から己れを防禦し、流してれを防する力が反対方向への力となって相手を攻撃するのである。水車は落水の力に抗することなくその力を利用して廻転しその力が反対方向に働くのである。風車も同様でこれは積(てこ)作用による力の運動で防禦も攻撃も天地自然の理道に和するのである。武道の攻防は一連で自然の理法にかなっている。武技の変化は球転の如く自分の身を移動することによって相手の実を往しこれを制して虚となしつつ。己れの実が相手の虚をつくのである。あたかも卓上をまろぶ球の運動の如く球に加わる力に抗することなくこれを流し自然の理道に和してスムーズにまろぶのと同様である。然し武技は卓上をまろぶ固定形の球転ではなく、空間をまろぶ柔軟な気体の球転である。固定形の球は平面の上はスムーズにまろぶが凹凸面は滑かにまろばない。気体の球は如何なる面も空間も自由に外力に阻まれることなく柔かにこれを往しつつ時には楕円形となりあるいは波状形に変りつつ滑かにまろびもとの球形に復するのである。気体の球は如何なる外力にも抗することなく無限に変形・してこれを軽く往す。無限に変形するから面も極も無限に変化する。だから形あって形がなく面があって面がなく極があって極がない。形も面も極もその変化は無限である。武技は気体の球の如くその変化には極限がなく宇宙の如く無限大である。宇宙の如く無限大であるから空である。無限の空であるから全てを抱擁して和となすことができる。宇宙の如く無限の空であるから武技には極致の技はない。その技は千変万化無限大で宇宙の真理に通ずる。武技の形は無限に入る基点である。
形から入って形に止まることなく形からぬけでた自由自在な無限の形が武技なのである。即ち和の技である。和の表現された形の錬磨によって武の根本理念である和の道を究め和の道を求め和の精神を修養することができるのである。だから和の技でなければそれは武技とはいえない。それのみではなく自然の理道に抗してかえって和を損うに至る。武技は決してただの荒事ではなく天地人の理道に和した無理のない大自然の理を表現した和の形である。
武の業は宇宙の如く 無限にて 業に極致はなきものと知れ
博紀


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P11 ≪日本武道に先手なし≫
前述の如く武道の根本理念は平和にあるので、故なくして武技を用うることは当然ありえないのである。またこれを用いねばならぬことほど人間として最大の不幸はない。だから終生これを用いないですむ様に争いごとや戦争をなくするために武道があるのである。だからみだりに先手に用いることは最もにくむべきことである。武技を用いるのは紛争解決の手段としては下の下策で、相手の暴力に対し万策つきてこれを用いる以外に手段方法のない時止むを得ずして用いるのである。用いる以上は絶対に平和をとり戻さねばならない。そのためには断じて勝たねばならぬ。だから皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切り,骨を切らして髄を切るという生死をかけて勝たねばならぬ教えがある。たとえ斃れても必ず相手を斃さねば止まぬのである。日本武道は積極的であり大乗的である。決して護身が目的で生れたものではない。護身は勝つための防禦である。そこに日本武道の特性がある。技はたまたま護身術になり得る場合があるに過ぎない。武技を護身のために用いねばならぬことさえ既に不幸な事である。この不幸を未然に防ぐため、「気構え」「心構え」がやかましくいわれるのである。戦略的に先制するため先手に出ることはあっても、それはあくまで勝つための戦術的手段に外ならない。

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