武技は『型』ではなく『形』。正しい信念に基づく協調を大切にしたい。

昨日(2024年3月19日)の発表会では嬉しいことがありました。
昨年末に初段位を取得した11歳の男児生徒が望ましい成長を見せてくれたからです。
発表会の前半は、先月に開催されたイベントで披露した演武の再演を依頼されました。その演武は私が指導を務めている3団体から集まった11名の小学生で構成されているのですが、内8名は異なる小学校の生徒のため、発表会が開催される小学校に入ることは出来ないので、11名で演じる内容を3名で演じることになりました。3名の内2名は7歳児と9歳児で代役を務められる内容に限りがあります。すると11歳の男児生徒が「このパートでは先生に習ったこの形を応用して良いですか?」と私に提案しました。私は驚きと嬉しさで「それでいってみよう!」と受け入れました。
30分間集中し真剣に取り組んだ子供たちは発表会での演武を見事に成功させ、終了後は多くの同級生や下級生たちから「凄かった!」「かっこよかった!」と声をかけられとても幸せそうな笑顔を私に見せてくれました。
教師が『教える』だけでなく、生徒たちが『習う』だけでなく、互いに考え知識や意見を交えて協力し、調和しようと努力することは’’親切’’・’’同情的’’・’’暖かい’’・’’思いやり’’といった『協調性』を育てる大切な経験だと思います。
道場での稽古も、私と有段の生徒たちで取り組む共同研究と共同実験です。


和道流空手道・柔術拳法の流祖 初代宗家 大塚博紀 最高師範 著
空手道 第一巻 P16 ≪型と形≫
「型」は「いがた」と読む。鋳物の型から造られる鋳物は、規格にはまった、変化のない同一の鋳物である。型は、その鋳物以外の用をなさない。武技は型であってはならない。「形」である。 「形」は「姿」「あらわす」の意で,鏡に映る姿と同様に,相手に応じて変わる。相手が僅かでも変われば、鏡面の姿もそれに応じて変わる。これが武技の形である。「型」は死んでいるが、「形」は活きている。死んだ型ではものの役に立たない。活きているから活用できるのである。だから武道の形を使うには,その形の持つ意味目的を活かして使わねばものの役に立たないばかりか徒労に終わる。活きた形を使うことは非常にむずかしいが、武技鍛錬には大切なことである。同一の形でも人によって使い方に多少の差異がある。それはその人の持つ個性が、形の上に現われるからである。型でなく形であるべきことは、ひとり武技のみではない。書でも同様で,型におちいると看板屋か提灯屋の字になって、奇麗にみえても死んでしまう。恰好だけが如何に立派でも,それは上手とはいえない。書が上手になるには、筆のおろし方,横に引き方,止め方、抜き方と、「一」の字の筆法を三年くらい習うそうである。俗にいう永字八法の運筆法が字のうちに出なければ字は恰好だけで死んだ字となる。日本舞踊でも同様である。体の運び,手足の振り,眼の配り方。すべてが型にはまって美しく見えても、踊が死んでいては無味乾燥なものになる。地方(じかた)の長唄なり清元なりの歌詞の持つ意を表情や振りに表現させ歌詞の意の音律化された曲との気合が合ってこそ,はじめて購が活きてくる。演劇。音楽,歌謡すべてがそうである。歌詞や詩詞の持つ意と無関係な型を、音律だけに合わせて使うときは、無味乾燥なものになるのみかむしろ滑稽である。武技の形の一挙一動は技の基礎である。その一挙一動は「書」における「永字八法」の運筆法と同様である。その正確な一挙一動の集成されたものが正しい活きた形であり活きた楷書なのである。のびのびとそしていきいきとした書を書くのと同様,のびのびとした活きた形を使わなければいけない。書では手紙を書く場合実用にならない。書から行書,さらに草書へと進み、そして字と字の連がりが自由自在にでき得るようになってはじめて立派な字で、手紙が書け実用になるのと同様に,形から組手形へ,さらに試合へと順を追って進んでこそ立派な武技が使えるのである。武技の基礎である形は書の基礎である楷書の如く重要性が高いのである。決して「かたち」だけであってはならない。活きた形の修業が肝要である。武技は型ではない形である。揮して正しい信念に基づく協調が大切である。

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